廬山

  廬山は中国・江西省北部の九江市にある。ここは江西、湖北、安徽の三省が境を接しているところで、長江の中流の南岸に位置し、潘陽湖に接している。標高は1474メートル。山の面積は280平方キロ。廬山を表現するのには「雄」「奇」「険」「秀」の四文字が適当である。奇峰や峻険な尾根が尽きることなく続き、古来より命名された峰は171もある。谷間や岩の洞窟、怪石が複雑に組み合わされ、湖沼や瀑布、渓流は美しく、壮観である。

  廬山の地質構造は非常に古く、複雑であり、それは地殻変動の主な歴史のプロセスをはっきりと示している。つまり廬山は、断層により両側の地盤が陥没し、堤防状の高地が残ったホルスト地形の独特の山なのである。

  これらは二百万年前の第四氷河期の気候変動がもたらしたものなのだ。1930年代に、中国の有名な地質学者の李四光は廬山を科学調査し、ここに多くの第四氷河期の遺跡があることを発見した。しかも中国の東部において第四氷河期の遺跡がもっとも集中的に、もっとも典型的に保存されている山は廬山であることが分かった。廬山は、その特殊な地理的な位置と特殊な地質構造によって、河川や湖沼、斜面、山地などのさまざまな地形と第四氷河期遺跡の独特の特徴を具えている。そして長江、潘陽湖と渾然一体となって独特の壮麗な景観を形成している。廬山には豊富な野生植物が2155種もあり、その中には希少植物が97種ある

  廬山には磨崖石刻がどこでも見られる。この「廬山」の二文字は2メートル×1・5メートルあり、宋代の南康太守が書いたもの。「山」の字の縦棒の中に、人が一人横になることができる。1982年、中央政府は廬山を国家重点風景名勝区と認可した。そして1996年ユネスコに、世界文化遺産としてリストに登録する。

  廬山風景名勝区の面積は302平方キロ。それを取り巻く保護地帯の面積は500平方キロに達する。風景名勝区は、山上と麓にある七つの区域から成り立っている。ここには秦漢時代以前の文化遺跡が22カ所、唐代までの文化遺跡は600余カ所あり、474箇所ある景勝の中に磨崖石刻は900余カ所、石碑は300余カ所ある。
  廬山は、昔から多くの文学者や芸術家に愛され、隠者や高僧のよりどころであり、政治家や名士の活動の舞台でもあった。こうした雰囲気が廬山に濃厚な文化的色彩をもたらし、奥深い文化の存する場所にした。

  廬山の山水文化は中国の山水文化が素晴らさで反映して、中国山水文化の歴史を縮小したものといえる。廬山の自然は詩的化された自然であり、また人間化された自然でもある。東晋時代以来、詩人たちが廬山について詠んだ詩詞歌賦は4,000を超え、廬山は中国山水詩の発祥地の一つとなった。

  また、宗教的な聖山としても古くから名高く、古くは後漢の安世高が住したことで知られ、中でも、東晋の慧遠が住した東林寺で有名である。慧遠は384年の来住以来、一生、山外に出ないと誓いを立てたとされ、その事にちなんだ「虎渓三笑」の説話の舞台も、この山である。また慧遠は蓮池を造り、その白蓮にちなんだ「白蓮社」と呼ばれる念仏結社を結成したとされ、中国の浄土教の祖とされている。

  麓の九江市から車で廬山に登る道は、蛇のようにくねくねと曲がり、毛沢東が詩の中で詠んだように、四百回以上も右に曲がり、左に曲がって、眩暈を催すほどだ。それほど廬山は険峻である。

  風景名勝区の中心である牯嶺鎮は廬山の北の峰に位置し、三方を山に囲まれ、一方は谷に面し、一頭の牝牛のような形をしているため、牯嶺鎮と呼ばれるようになったという。 夏の廬山は、ザアーと雨が降ってはすぐにあがる。雨がやむと、山からたちまち霧が湧き上がる。風に吹かれた濃い霧は、山の尾根に沿って這い上がり、あっという間に道という道を覆い尽くしてしまう。小さな山あいの鎮は見えては隠れ、霧の中を歩くとあたかも天国を歩いているかのような錯覚にとらわれる。

  廬山の別荘群は、600余りの建物があり、牯嶺一帯に集中している。今の牯嶺鎮は、現地の住民が生活している以外に、各地から来た観光客の多くがここに宿泊している。ホテルやレストランがこの小さな町の街道に沿って両側に並び、観光客がにぎわっている。陽が西の山に落ちると、濃い霧はだんだんと消えて行き、街道がだんだんとその姿を現す。

詩に詠われた廬山の風光

湖畔の別荘;
  廬山の悠久の歴史は、前漢(紀元前206〜紀元8年)以前にまで遡ることができる。伝承によると、今から4000年前、夏王朝の初代帝王の禹は、治水のためにこの地にやって来たが、ハ陽湖の中にある大孤山(鞋山とも言う)から洪水が向かう方向を観察し、洪水を治める方法を研究したと言う。この伝承は、文字に記載されてはいないが、紀元前126年に、前漢の歴史家、司馬遷が廬山に遊び、考察した際、その著書『史記』の中でこのような記載を残している。「余、南ニ廬山ニ登リ、禹ノ九江ヲ疎スルヲ観ル」(疎は水路を通すの意味) これが、最初に歴史資料に記載された廬山に関する記述である。以来、歴代の文人墨客が廬山の名を慕ってここに遊び、その思いを詩や詞に託してきた。東晋(317〜420年)以来、廬山を詠った詩や詞は、四千余首にも達する。明の洪武26年(1393年)、太祖朱元璋が詔を発して建てた御碑亭。これは瓦、屋根の棟、壁、柱、門がすべて石で造られた石亭である 。東晋の詩人、謝霊運の「廬山ノ絶頂ニ登リ、諸橋ヲ望ム」や南朝(420〜589年)の詩人、鮑照の「石門ヲ望ム」などはどれも、中国最初の山水詩の一つである。田園詩人と言われる陶淵明は、一生涯、廬山を背景に創作活動に従事し、中国の田園詩の詩風を拓いた。有名な『桃花源記』はその代表作の一つである。
  唐の時代になると、廬山を詠った山水詩の創作は、芸術的絶頂期に達する。李白は五回も廬山に遊び、十四首の詩を残した。その中で「廬山ノ瀑布ヲ望ム」はとくに世に知られている。

  1903年に建てられた美廬別荘 : 清の光緒11年(1885年)、外国人では初めて、ロシアの商人が廬山にやって来て、土地を租借し始めた。次いで英国の宣教師が来て、英国政府の対清政策と外国勢力を利用して圧力をかけた。その結果、その年の11月29日、九江の道台と英国の駐九江領事とが、廬山牯嶺の長沖谷を999年間、租借する『コ牛嶺案十二条』に調印した。このときから英、米、仏、独、露など十八カ国の人々が次々に廬山にやって来て、牯嶺に別荘を建てたのである。

 1930年代になると、廬山は、当時の国民政府の「夏の首都」となった。蒋介石は何回も廬山の美廬別荘にやって来た。この美廬別荘は、英国のナイトの称号を持つ人物が1903年に建てたもので、1922年にある外国人女性の手に渡り、その女性が蒋介石の夫人、宋美齢と個人的に深い付き合いがあったため、1934年、蒋介石夫妻にこの別荘をプレゼントしたのだった。

 1937年夏、中国共産党の指導者の周恩来が廬山に二回やって来て、美廬別荘で蒋介石と交渉し、有名な『国共合作の公表についての中共中央の宣言』を提出し、国共両党の第二次合作を促し、抗日統一戦線を形成した。今でも廬山には、600以上のさまざまな様式の別荘があり、有名な避暑地となっている。毎年夏が来れば、国内からも外国からも観光客が引きもきらずにやって来ている。



 
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